松本市の紹介

岳都・学都・楽都、美しい三重奏の響く松本市

本州および長野県のほぼ中央に位置し、400年以上の歴史を誇る城下町・松本は、街道が集積することで古くから交易・交流でにぎわってきました。
進取に富んだ人びとの気風のもと、明治時代から「学都」として豊かな文化を育み、3000メートル級の峰々が連なる北アルプスにより「岳都」の冠をいただいています。また大自然の宝庫でもあり、美しい四季に磨かれた感性が芸術、特に音楽への恵みとなり「楽都」としても多くの愛好者に親しまれています。そして街のシンボルであり、市民の心の拠りどころ松本城とともに、それらが相まっても街の大きな魅力を生み出してきました。

この地には、平安時代に信濃国府、中世は信濃守護の館が置かれ、江戸時代は松本藩の城下町として栄えました。市制施行は明治40年5月1日。その後、近隣の村との合併を経て現在の市域が形成されたのです。
明治には製糸業を軸に近代産業が勃興し、大正3年の日本銀行松本支店開業もあり、長野県下における経済金融の中心地となりました。近代工業化は第二次世界大戦中の工場疎開に端を発し、昭和39年には内陸唯一の新産業都市に指定され、電気・機械・食料品などの業種を中心に発展、近年ではソフトウェア産業の振興も進んでいます。
また「商都」として中南信の商圏の中心となり大きな商業集積地を形成、街の大型整備事業により、蔵のまち中町縄手通りのような個性ある商店街も誕生しました。一方で車で少し走れば自然豊かな田園風景に出合えるなど、都市と農村が共存する生活環境も魅力と言えるでしょう。

岳都

西に北アルプスの峰をいただき、東に美ヶ原の大地をも備えた松本市は、多くのアルピニストが集い、今日も山に挑み、山を愛し、大自然との絆を深める場所です。
松本市役所の標高が592m。かたや3,180mの槍ヶ岳、3,190mの奥穂高岳をはじめ、北アルプスは日本の岳人たちが憧れてやまない3000m級の峰9山を抱いています。
そして松本市は、小説家、随筆家の深田久弥が、多くの山を踏破した経験から「品格・歴史・個性」を兼ね備えた標高1500m以上の基準で選定した「日本百名山」のうちの6山を有しています。

日本を代表する山岳景勝地の「上高地」の、大正池から河童橋を通り、明神池に至るルートは上高地らしさを堪能できる人気のトレッキングルートです。
乗鞍岳の東山麓に広がる1,200~1,800mにかけての一帯が广西快乐十分注册。高原には原生林や池、湿原、滝などの自然があふれています。
美ヶ原高原は松本市の東に広がる日本一の高原台地です。北アルプスや南アルプス、八ヶ岳や浅間山、そして富士山までを見渡せる大パノラマが魅力です。

松本市山辺地区からの松本市街と北アルプス遠望

楽都

「どの子も育つ、育て方ひとつ」という母語教育法の理念に基づき、バイオリン、ピアノ、チェロ、フルートによる音楽教育を行っているスズキ・メソード。単なる音楽教育の枠を超えた人間教育として、創始者・APP(松本市名誉市民)の理念は、今では世界46カ国に広まっています。鈴木が昭和26年から平成6年まで暮らした松本市は、スズキ・メソード発祥の地でもあります。そのため、合唱団や吹奏楽、オーケストラになどに親しむ環境が自然でできあがっていきました。

そんな地で、世界のオザワこと小澤征爾が、恩師である斎藤秀雄の名を冠して小澤征爾が創立したオーケストラが、毎夏松本で開催する音楽祭『サイトウ・キネン・フェスティバル松本』が1992年9月にスタートしました。
オーケストラコンサートとオペラを2本柱とした世界屈指の演奏家たちの競演は大評判となり、世代を超えて多くの人が参加できる音楽祭として継続されてきました。2015年からは『セイジ・オザワ 松本フェスティバル(OMF)』と名称を変え、新たなステージが始まっています。

日本を代表するパイプオルガンを有する松本市音楽文化ホールは市民の音楽文化向上を牽引、まつもと市民芸術館では「まつもと市民オペラ」も定期開催される他、演出を重視したユニークな作品を上演しています。また、キッセイ文化ホール(長野県立松本文化会館)はセイジ・オザワ 松本フェスティバルのメイン会場となっています。

学都

松本が「学都」となる礎には、江戸時代の教育熱があったと言われています。松本藩を含む筑摩郡での寺子屋の数は、天保年間(1830~44)にピークを迎え、信濃国内でも有数でした。

明治4年から始まった筑摩県(長野県中信地方・南信地方、岐阜県飛騨地方と中津川市の一部)の時代、初代参事(現在の知事)になった永山盛輝は、教育を重視し、資金を集めて県学1校、郷学(小学校)10校を設ける計画を立てました。
明治5年5月には本町の女鳥羽河畔の全久院跡に県学が、翌6年には県学の教員の大半を受け継いで開智学校が開校。同9年には、現在に残る立派な擬洋風建築の校舎が完成しますが、建築費の約7割が住民の寄附で賄われました。この校舎は、筑摩県が教育を立県の指針とした象徴です。

大正8年には積極的な誘致運動を経て松本高等学校が、同12年には松本第二中学校が開校。さらに大正時代には中等教育機関も充実しました。
昭和24年5月、松本医科大学、松本高等学校、松本医学専門学校、長野師範学校など8校が併合され新制国立信州大学が発足。本部は旧松本歩兵第五十連隊跡地に置かれました。
昭和28年に松商学園短期大学、昭和47年に松本短期大学、平成14年には松本大学が発足するなど、高等教育機関の充実とともに松本は「学生の街」と言われています。